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京都御所(その1)

京都御所を拝観しました。


2005年3月28日(土)


無暖房住宅の設計者ハンス・エーク氏と通訳の友子ハンソンさんに同行し、京都御所を拝観する機会を得ました。

左側の白い塀が御所築地(土塀)と無暖房住宅の設計者ハンス・エーク氏と通訳の友子ハンソンさん。
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【各建物の説明は、御所配布パンフレットによる】


現在の京都御所は、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)といわれる里内裏(さとだいり)の一つで、平安内裏(へいあんだいり)の廃滅と前後して用いられることが多くなり、元弘(げんこう)元年(1331年)光厳(こうごん)天皇がここに即位されてから、明治2年(1869年)の東京遷都までの永きにわたり皇居とされるようになった。
しかし、この間幾度となく火災と再建を繰り返し、天明8年(1788年)の類焼による再建の際、幕府は老中松平定信を総奉行とし、当時の故実家裏松固禅(裏松光世)らの考証によって紫宸殿を始め主な殿舎の意匠を平安の古制に復元し、また、飛香舎などの失われていた殿舎の一部を復興するなど、古制への復帰を図り、新内裏は寛政2年(1790年)に完成した。
その後、この殿舎の寛永7年(1854年)に焼失したが、その再建に当たって幕府は、寛政時の内裏の計画をほとんどそのまま踏襲し、翌安政2年(1855年)に異例の速さをもって再建を果たし、今日に至っている。


御所配置図と拝観経路図(赤と青矢印)
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参観順路は、予め決まっていて、

①宜秋門(ぎしゅうもん)→②御車寄→③新御車寄→④建礼門(けんれいもん)→⑤紫宸殿前(ししんでんまえ)→⑥清涼殿(せいりょうでん)→⑦小御所→⑧蹴鞠の庭(けまりのにわ)→⑨御学門所→⑩「剣璽の間(けんじのま)→⑪御常御殿(おつねごてん)→⑫御内庭(ごないてい)→終了と成っている。


京都御所は、築地塀で囲まれた南北約450m、東西250mの方形で、面積は約11万㎡である。
南に白砂敷きの南庭を構えた紫宸殿が高くそびえ立ち、その北西に清涼殿、北東に小御所、御学問所がいずれも東に面して建っている。
小御所と御学問所の前は、白砂敷きで空間を造りだし、雄大な御池庭を配している。
その北にある白壁塀の門をくぐると御常御殿、さらに北に、孝明天皇の御書見の間として建てられた迎春、その廊下伝えに熱暑の夏を過ごすための御涼所、吹き抜けの雅趣豊かな渡り廊下に導かれる茶室聴雪と続く。
最北部は、小塀に囲まれて皇后宮の常御殿と女御などの住まいであった飛香舎がある。
飛香舎はその南庭に藤が植えられているため藤壺ともいわれている。
寝殿造り、書院造り、数奇屋風など歴史上代表的な建築様式を調和させ凝縮している京都御所は、文化財としても高い価値を有している。
京都大宮御所、仙洞御所、桂離宮、修学院離宮とともに皇室用財産(国有財産)として宮内庁が管理している。


右:参観者休所の屋根瓦(棟)左:屋根瓦(軒先)
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参観者休所の軒先(雨樋)
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御所内から見た宜秋門(ぎしゅんもん)
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【諸大夫の間】しょだいぶのま
正式な用向きで参内した時の控えの建物。
最も格の高い『公卿の間』諸侯・所司代の控えの『殿上人の間』、それ以外の者の控えの『諸大夫の間』の三室からなり、それぞれ襖の絵にちなんで『虎の間』(岸岱筆)、『鶴の間』(狩野永岳筆)、『桜の間』(原 在照筆)とも呼ばれている。

工事中だった諸大夫の間
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【御車寄】おくるまよせ
昇殿を許された者が正式な参内の時の玄関であり、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で優雅な反りをなしている。

新御車寄前で説明を受けるハンス・エーク氏と友子・ハンソンさん。
新御車寄前から月華門方向を見る。
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新御車寄
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【紫宸殿】ししんでん
安政2年(1855年)に再建された紫宸殿は、即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿であり、京都御所の象徴ともいえる存在である。
大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われた。
入母屋檜皮葺の高床式宮殿建築で、間口約37m、奥行き約26.3m、棟高20.5mの純木造平屋建てである。

左:紫宸殿(手間は承明門)右:紫宸殿(アップ)
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正面に十八段の階段を有し、四方に高欄を付けた簀子をめぐらしている。
内部は寝殿造りの例により中央の母屋の四囲に廂があり、母屋と北廂の間は絹張りの襖の賢聖障子で仕切られ、天井板はなく化粧屋根裏である。
四囲の胡粉の白塗り地板に黒添塗りの桟で格子を組んだ蔀戸で、開けるときは内側に金物で釣り上げる。
六枚の板を透し張りにした簀子の正面にある紫宸殿の扁額は、岡本保孝の筆で、嘉永時の炎上のときに賢聖障子と共に類焼をまぬがれている。
階段脇には、東に左近の桜、西に右近の橘があり、前面には白砂の南庭が広がり、建物と同様に庭も重要な役割を果たしている。

右近の橘と左近の桜(紫宸殿側から見た右と左に成ります)
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紫宸殿手前の承明門とその屋根
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建春門
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建春門近くの拝観者用トイレ
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工事中の日華門
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紫宸殿右側宜陽殿の木戸と桧皮葺屋根の実物模型
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宜陽殿入り口と紫宸殿(裏手庇)
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【清涼殿その1】せいりょうでん
紫宸殿の背後の北西部に東面して建ち、別棟として御常御殿が建てられるまでの永い間、天皇の日常の御生活の場として使用されていた。
被災や寺社への下賜により建替えを繰り返し、現在のものは平安時代の内裏のものより小さくなっているが、比較的よく古制を伝えている。

清涼殿の前庭
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清涼殿側から見た紫宸殿裏
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清涼殿側から見た紫宸殿裏
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紫宸殿と清涼殿を結ぶ廊下
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清涼殿の東側に広がる東庭は、白砂敷きで、正面に呉竹、南寄り軒下近くに漢竹が籬に囲まれて植えてある。
北側に20cm程の落差のある滝口があり、そこから落ちた御溝水は、御溝に沿って楚々とした流れを作っている。

呉竹(クレタケ)と漢竹(カワタケ)
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滝 口
タテ看板には、『御溝水の落ち口を滝口と呼び、清涼殿を警護する武士が詰めた場所です。』と書かれています。
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【清涼殿その2】せいりょうでん
建物は入母屋檜皮葺の寝殿造りで、紫宸殿と同じであるが、床ははるかに低く、内部は間仕切りもおおくなっていて、日常の御住居に適するように工夫されている。

清涼殿内部
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東側は弘廂といい、その北側には部屋に直角に立てられた絹張りの衝立昆明池障子(模造)、南側には年中行事を記した障子(衝立)が用いられている。

清涼殿に掲示されている年行事
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南廂を『御上の間』といい、ここに蔵人や公卿などが伺候し奉仕した。
殿上人というのは、ここに昇殿できる者のことである。
東廂には、床を漆喰で固めた石灰壇(いしばいだん)、『昼御座』(ひのおまし)と呼ばれる昼の間の御座所、そして小部屋が二つ並んでいる。
さらに奥の母屋には獅子狛犬に守られて御帳台が置かれ、天皇の御休息にあてられた。
さらに、天皇の御寝室として四囲を壁で囲んだ塗龍(むりごめ)造りの夜御殿(よんのおとど)がある。
正面からはうかがい知れない西廂は、奥向きにふさわしく御湯殿上(おゆどののうえ)、御手水間(おちょうずのま)、朝がれいの間などの部屋が並び萩壺(はぎつぼ)に面している。

清涼殿の軒裏
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清涼殿の前庭と清涼殿側から見た参観入り口
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京都御所(その2)に続く。

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