ドイツ連邦共和国
ベルリン市内の建築を4回に亘って紹介します。
(2003年2月2日視察)
ベルリン市内の地図(2枚貼り合わせ全体図)
右側の拡大地図です。
右上の赤囲いから始まり、
(1)アレクサンダープラッツ駅⇒(2)アレクサンダー広場⇒(3)パーク・イン・アレクサンダープラッツ・ホテル・ベルリン⇒(4)テレビ塔⇒(5)マリエン教会⇒(6)赤の市庁舎⇒(7)カールリープクネヒト通り沿いの複合ビル現場⇒(8)リープクネヒト橋⇒(9)ベルリン大聖堂⇒(10)旧東ドイツ時代の国家評議会の建物⇒(11)国立オペラ劇場⇒(12)シュロス橋⇒(13)ツオイックハウスの裏手?⇒(14)カールリープクネヒト通り⇒(15)ノイエ・ヴァッヘ(16)フンボルト大学
までを今回は紹介します。
(1)
ベルリン市 アレクサンダープラッツ駅のホーム
駅前には、アレクサンダー広場が有り、宿泊先のホテルはその広場に面していた。
(1)
アレクサンダープラッツ駅の出入り口
(2)
アレクサンダー広場
(3)
宿泊先のホテル
Park Inn Alexanderplatz Hotel Berlin
(パーク・イン・アレクサンダープラッツ・ホテル・ベルリン)
高層建築に見えたホテルで、期待をして入ったが、この建物は旧東ドイツ時代の物で、階高は低く各室内のスペースも狭かった。
西ドイツへの見栄の為、無理をしている建物が、旧東ドイツ側には多いと聞いた。
(3)ホテルとテレビ塔
(絵葉書より)
前面がアレクサンダー広場。
夜景テレビ塔を背にするホテル.(カタログより)
(4)
アレクサンダー広場からアレクサンダープラッツ駅を挟んで建つテレビ塔。
右の建物はデパート。
旧東ドイツのランドマーク的象徴の建物だった。
現在も観光名所になっている。
高さ365mあり、展望台は途中の203mに位置し、高層エレベーターで登れる。
2005年始めに公開された映画、ボーン・スプレマシーン(主演マット・ディモン)で、ベルリン市内の撮影の際、このテレビ塔と宿泊したパーク・イン・アレクサンダープラッツ・ホテル・ベルリンが、画面いっぱいに写し出されています。
また、ホテルとアレクサンダープラッツ駅の間にある、アレクサンダー広場も、重要なシーンで出ています。
機会があれば、ビデオ屋さんで借りて見て下さい。
映画もなかなか面白いですよ。続編なので、前作を先に見るとなお面白いです。
(4)
塔の下部。
エレベーターで展望台まで行ける。
前を通り過ぎ、カールリープクネヒト通りをブランデンブルク門に向かって歩く。(右側方向へ)
(5)
テレビ塔を背にする改装中のマリエン教会
日曜日のため礼拝の鐘が成り思わずアーメンと心で呟く。
13世紀に建設されたベルリンの中心的教会、ペストの流行を題材に描かれたフレスコ画『死の舞踏』やワグナーのパイプオルガンが有名、森鴎外の作品『舞姫』の舞台にもなった。
(6)
近くの赤の市庁舎。
赤の市庁舎 Rotes Rathaus 19世紀建造。
レンガ造り、高さ74mの中央の塔を軸にシンメトリックな外観が目をひく。華麗な階段を中心に配した内装も必見だそです。(私は見ていません)
(7)
カールリープクネヒト通り沿いの複合ビル現場。
(8)
リープクネヒト橋から北を見る。
(8)
リープクネヒト橋から南側を見る。
(9)
現場からリープクネヒト橋を渡ると、ベルリン大聖堂がある。
ヴィルヘルム2世の命により、1893年~1905年の12年の歳月を架けて建造された。
イタリア・ルネッサンス様式のプロテスタント大聖堂。
ドームの屋上からはベルリン市街を目前に展望できる。
(9)
大聖堂の正門
(9)
正門からのドームを見る
(9)
右側面からの大聖堂
歩いてきた道をバックに撮影したベルリン大聖堂(左手)。
見学した現場のクレーンとテレビ塔が見える。
(9)
大聖堂のドームからの夜景
(10)
ベルリン大聖堂前に有る、旧東ドイツ時代の国家評議会の建物。
現在は使用されておらず、解体費用問題で廃墟のまま放置されている。
ベルリン市内では、この様な状態での建物をよく見た。
カールリープクネヒト通りに面した一等地に手着かずの状態で放置されている建物を見ると、ベルリンの壁が崩壊した現在も爪あとは深く、短期には解決できない問題が多い事を感じさせる。
(ベルリンマラソンのテレビ中継でも、この建物が写っていました。)
(11)
国立オペラ劇場
(12)
シュロス橋。正面が、ベルガモン博物館
(12)
シュロス橋のデザイン
(13)ツオイックハウスの裏手?
(14)カールリープクネヒト通りを、ブランデンブルク門方向に見る。
(15)
ノイエ・ヴァッヘ(1)正面全景
(15)
ノイエ・ヴァッヘ(2)
建物背面部分。
銃弾の跡が残っている。
ドイツに執って、神聖な建物であるノイエ・ヴァッヘを、旧ソ連軍は必要に痛めつけた。
(15)
ノイエ・ヴァッヘ(3)
『死んだ息子を抱く母』の像、この像以外には何も置かれていない。
(15)
ノイエ・ヴァッヘ(4)
ノイエ・ヴァッヘの言葉。(その1)
(記載文を載せます。)
『ノイエ・ヴァッヘは、戦争と暴力支配の犠牲者に対する記憶と追悼の場である。
我々は戦争で苦しんだ各民族の一員で迫害され命を失った人々に思いをいたす。
我々は、世界大戦の戦没者たちに思いをいたす。
我々は、戦争と戦争の結果により故郷で、捕らわれの身で、我々は殺害された何百万ものユダヤ人々に思いをいたす。
我々は、その出自、その同性愛、その病いや弱さゆえにそれぞれ殺さていった全ての人々に思いをいたす。
我々は生きる権利を否定され殺害された全ての人々に思いをいたす。
我々は、宗教や政治的信念ゆえに命をおとさなければならなかった人々に思いをいたす。
我々は暴力支配に抵抗し命を犠牲にした女性たちや男性たちに思いをいたす。
我々は自らの良心を曲げるより死を受け入れた全ての人々の栄誉を讃える。
我々は、1945年以降の全体主義独裁に逆らったために迫害され殺害された女性たちや男性たちに思いをいたす。
(15)
ノイエ・ヴァッヘの言葉。(その2)
(記載文を載せます。)
『ノイエ・ヴァッヘ』(直訳では、新衛兵所)はカール・
フリードリッヒ・シンケルの設計によりプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム三世のために1816年から1818年にかけて建設されました。
ここには1818年から1918年まで国王直属の護衛兵(ヴァッヘ)が配置されていました。
1931年、当時のプロイセン政府はこのノイエ・ヴァッヘを改築、ハインリッヒ・テッセノウの設計で『世界大
戦戦没者慰霊館』を設立しました。
訪れる人々を黙想へといざなう部屋の中央には、銀色の柏葉の冠を配した花崗岩の岩塊が置かれていました。
第二次世界大戦終結の直前、ノイエ・ヴァッヘは爆撃により大きな損傷を蒙りました。
ノイエ・ヴァッヘの建物は旧ドイツ民主主義共和国(旧東ドイツ)により再建され、1960年以降、『ファシ
ズムと軍国主義の犠牲者慰霊館』として使用されるようになりました。
また1969年からは、屋内中央に永遠の炎が灯されていました。
1969年、無名戦士一名と強制収容所の無名犠牲者一名の亡骸がここに葬られました。
この亡骸は第二次世界大戦の戦場と強制収容所の土地からもってきた土に埋葬されています。
1993年、ノイエ・ヴァッヘはドイツ連邦共和国中央慰霊館となりました。
室内は大部分ワイルマール共和国時代の状態が再現されています。
慰霊館の中央にはケール・コルヴイッツの作品『死んだ息子を抱く母』を拡大した像がたっています。
この拡大像はハラルド・ハーケの制作によるものです。
ノイエ・ヴァッヘはファシズムと暴力支配の犠牲者に対する配憶と追悼の場です。
(16)
フンボルト大学
大学正門広場では、古本市が開かれていました。
首都ベルリンの建物(その2)に続く。