【遠い地でのひな祭り】
2005年3月3日(木)札幌から東京へ
札幌講演が無事終了し、ハンス・エーク氏他関係者は東京に戻る為、千歳空港から羽田に向う。
千歳空港で出発を待つ間、私が自宅から持参したパッシブハウスの資料を、ハンス・エーク氏に見せた。
インターネットで検索した資料だが、ヨーロッパ各国の取り組み方を紹介した資料だ。
もちろんハンス・エーク氏の無暖房住宅も掲載されている。
ハンス・エーク氏は資料に目を通し、自分の手掛けたリンドースの無暖房住宅の掲載を、自慢げに指さした。
私が、2003年リンドースを視察した際に、写した無暖房住宅の写真を、『私の仕事場に掲げている』事を話すと、大変喜んでくれた。
出発ロビーに入り搭乗を待つ間に、売店で北海道の絵ハガキとペンダントを購入して、ハンス・エーク氏にプレゼントした。
長い間同行させてもたったお礼と、その間のハンス・エーク氏本人からでないと聞けない、無暖房住宅のエピソードや建築にまつわる事柄を、体験出来た感謝の気持ちだった。
羽田空港に着き、宮坂専務理事と堀内事務局長は仕事の為空港で別れ、ハンス・エーク氏、友子・ハンソンさんと私は、宿泊先の浅草ビューホテルに向かった。
ハンス・エーク氏は来日依頼、バイオリンを常に荷物の1つとして、移動してきた。
スウェーデンからの移動でも大変なのに、見知らぬ土地を長期に渡り旅行するのには、余分な荷物だったと思う。
多くの荷物を持つハンス・エーク氏に、私が手を貸そうとそのバイオリンに手を掛けると、大慌てで制止しそれを拒む事が有った。
何よりも大切にしているバイオリンとの印象が有ったが、今回の旅行の荷物には不適格な物だったのかもしれない。
だだ、ハンス・エーク氏としては、初めての日本旅行を企画し、招待してくれた堀内さんをはじめとする、NPO外断熱推進会議の方々に、その感謝の気持ちをバイオリン演奏に託したい、そんな気持ちも有ったのだろうと思った。
ホテルにチェックイン後、夕刻まで各自部屋で休む事にした。
私は部屋で、各講演会の事を思い浮かべていた。
長野に始まり、東京、京都、札幌の4都市を廻り、多くの人々に無暖房住宅の紹介出来た。
その事が、今後の日本にどの様な動きと成って現れるのか、大変楽しみに思えた。
夕食前ホテルの喫茶店で、NPO外断熱推進会議企画による8月のイエテボリ視察の打合わせと無暖房住宅建設のポイントなどについて話すため、ハンス・エーク氏、友子・ハンソンさん、堀内事務局長と私の4名で会った。
先に、来日直後ハンス・エーク氏の日本名で名刺を作る約束していたが、今日出来上がり、堀内事務局長からハンス・エーク氏に手渡された。
名刺には、ハンス・エーク(汎巣英育)と書かれていた。
外断熱推進会議の皆さんが、ハンス・エーク氏に敬意をもって、日本語表記を考えたものだった。
また、同じ日本語のゴム印もプレゼントされた。
ハンス・エーク氏は大変喜びし、早速私達3人に名刺を配った。
打合わせを始めるとハンス・エーク氏の携帯電話が鳴った。
相手は、ロシア大使館の人で、リンドースの無暖房住宅見学の件とのこと、予定を手帳に記入していたが、手帳は今後の予定でいっぱいだった。
ハンス・エーク氏は、無暖房住宅で一躍時の人となり、ヨーロッパ・アメリカ等での講演依頼が殺到して
いるとのことだ。
今回も忙しいスケジュールを割いて来日と聞いていたが、それを再確認し時の人の講演会に、同行出来た事を今更ながら感謝した。
ハンス・エーク氏が堀内事務局長に質問した。
『今回の私の講演はどうでしたか。』
堀内事務局長は、『大変良かった。予想以上の効果があった。』と答えた。
その理由について、堀内事務局長は、
①今までの講演会と違い、建築関係者以外の人達が感心を持ち、高断熱普及の啓蒙に繋がった。
②各講演会に出席していただいた、社会的オピニオンリーダーがハンス・エーク氏に関心を持ったこと。
以上2点を挙げた。
ハンス・エーク氏は大変嬉そうに微笑んだ。
長期に亘り、日本を縦断した強行日程の中、講演の成果を評価してもらい、充実感と安堵感を持った様だ。
そしてハンス・エーク氏は言った。
『実験的無暖房住宅を、早く日本に造り、温度測定などを行うべきだ。
そうすれば、日本の人達が無暖房住宅を体験できる、リンドースまで来なくて済む。』と笑いながら話した。
そして建設に向けた注意点を、リンドース無暖房住宅で実際に行った手法として話してくれた。
①教育打合わせ(意匠設計、構造設計、建築物理、設備設計、施工計画、エネルギー設計、以上の関係者が打合せること。)を、設計計画段階から行う事。
②完全な本設計後に、建設実施を行う。
③出来た建物を評価する。
④情報を提供する。
⑤竣工前には品質検査を行うこと。
そして、こちらから図面をもらえば、アドバイザーとして図面を見てくれるとまで言ってくれた。
日本に、無暖房住宅が誕生する日が、見えた瞬間だった。
打合せ後、雷門前のてんぷら屋さんで夕食をとった。
お酒を勧めると、ハンス・エーク氏は帰国後に予定されている、24時間ボランティァ演奏会に備えてお酒を断つと話し、アルコールを取らなかった。
あんなに、好きなお酒を断つとは、余程その演奏は重要なのだろう。
てんぷら屋さんは、歴史ある店舗で店が古いため、繁華街に面した窓は、木製の引き違い窓で一重の単板ガラス、しかも鍵はネジ式のものだった。
それを見てハンス・エーク氏は、『熱が自由に出入りするね。』と言って鍵を操作していた。
『日本の建物は、夏を主体に造る事で進化してきた。』と、堀内さんが話すと、
『今日もこんなに寒いのに、それは間違っている。断熱は寒さと暑さの両方に効果が有ることを、教育すべきだ』と話しながら、『でもこの鍵は、気密を上げるのには効果的だね』と笑いを誘った。
『スウェーデンでは、断熱と気密の徹底化が行われて、良質な建物が造られている事が羨ましい』と私が話すと、『スウェーデンでも、防湿シートを破いてしまう電工もいる。スウェーデンでも、全員が物事を知っている訳ではない。だから、先程話した設計計画段階での、教育が重要なのだ。』と言った。
明日は、午前中の成田発に乗る為、早めに切り上げた。
店を出ると、みぞれ混じりの雨が降っていた。
堀内事務局長とは、店の前で別れ3人はホテルに帰る事になった。
友子・ハンソンさんと私が、ホテルの方向を確認していると、ハンス・エーク氏が『こっちだよ』と手招きしている。
彼は、ホテルにチェックイン後、この界隈をすでに廻った様だ。
スウェーデン人のハンス・エーク氏を先頭に、日本人の友子・ハンソンさんと私は、彼の後に付いてホテルに戻った。
ホテルのロビーには、雛人形が飾られていた。
日本の、女子のお祝いだと知り記念撮影を希望した。
ハンス・エーク氏にも、2人の娘さんがいる。
浅草三社祭の神輿前で、ハンス・エーク氏と私のスナップ写真を取り、各自の部屋に戻った。
早いもので、明日はハンス・エーク氏の日本滞在最後の日だ。
17.ハンス・エーク氏の足跡を大切に続く。